日本の大地震
1854年から1855年にかけて、大阪・奈良・伊勢・江戸で大地震が起りました。
下記に詳しく説明していますが、津波も発生しています。
今回、この記事を書くきっかけとなったのは、実家に帰省した際、出雲五鉄師の一族糸原家の記念館に見学に行った折に、江戸時代の或る資料を偶然発見したからだ。
【 糸原邸敷地内入り口 左が糸原記念館 】
以下、その画像をご覧頂きたい。
知らない方のために、解説しますと、出雲五鉄師の中の御三家の一族、糸原家邸宅は、1958年公開、小林旭と浅丘ルリ子主演、「絶唱」のロケ地となった旧家である。舟木一夫と和泉雅子も、三浦友和と山口百恵版も存在します。主題歌がヒットしたのは舟木一夫と和泉雅子版です。
【 糸原邸敷地内から出入口を望む 】
更に、出雲五鉄師の一族、島根の旦さんこと「田部長右衛門」「は過去NHKの特集番組「新日本紀行」で扱われ、NHKアーカイブスのリクエストで再放送された事があります。
更に、出雲五鉄師の一族、櫻井家邸宅は、あの「砂の器」、2004年渡辺謙・中居正広主演のTBS制作版のロケ地となりました。
【 櫻井家邸宅 】
さて、話を大阪地震と津波に戻そう。
因みに、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)には、「日米和親条約」が締結されています。
1858年(安政5年)から1859年(安政6年)にかけては、あの「安政の大獄」弾圧事件が起きました。或る意味、この時代は、日本に取って最大のピンチだった訳ですね。
意外と、大阪の市民は安心しているのではないでしょうか!?
大阪には地震は来ないだろうと。
私の知っている僧侶は、理不尽な発生の仕方をする最近の日本の大地震を予言していましたが、その影響もあり、私は個人的に日本の大きな地震を調べてみたりもしました。しかし、今一つ、東日本大震災が起っても我々関西人はピンと来ていませんよね。
実は、大阪市民の大半はほとんど知らないけれど、約150年前の「安政南海大地震」の教訓をいかしたモニュメントと施設が2つ存在します。
1、大正橋東詰の地(大阪ドーム右正面・浪速区幸町3丁目9番)に、1855年(安政2年)7月に建立された「大地震両川口津浪記碑」です。現在、この地にあるのはレプリカです。
この石碑には、1707年(宝永四年)十月四日の「宝永地震」でも津波が襲ったと指摘してあり、且つ人々の記憶からこの教訓が忘れられているという嘆きまで述べられています。
2、又、大阪市西区江之子島2-1-64には、遂最近の昨年の平成21年9月8日にオープンした「津波・高潮ステーション」という対地震・津波災害に対する意識を府民に持たせるための広報施設が存在します。中には、「津波災害体感シアター」という優れものが存在します。小学生の遠足は絶対にここに行くべきではないでしょうか?
さて、ちょっとポイントを整理しておきましょう。
嘉永から安政に変号し、嘉永7年=安政元年であり西暦1854年(虎年)です。
日付は、暦が違うので、当然同じではありません。
更に驚いたのは、安政7年(1860年)の桜田門外の変は、この地震の影響で起きたと云っても過言ではない。
◆安政東海地震
1854年12月23日(安政元年11月4日)、御前8時、M8.4
死傷者数 数千人規模、津波 最大22.7m
・・・その約32時間後に・・・
◆安政南海地震
1854年12月24日(安政元年11月5日)、午後4時、M8.4
死傷者数 2〜3千人、津波 最大16.1m
◆豊予海峡地震
1854年12月26日(安政元年11月7日)、御前8時頃 、M7.4
被害データは、安政南海地震と混同されている。
◆安政江戸地震
1855年11月11日(安政2年10月2日)、午後10時、M6.9
死傷者数 4000人規模
◆昭和東南海地震
1944年12月 7日(昭和19年12月7日)、M7.9
死傷者数 1223人、津波 最大10m
◆昭和南海地震
1946年12月21日 (M8.0)
◆和歌山県南西部地震
1948年 4月18日 (M7.0)
また、ここには書ききれないほど、昭和東南海地震の後には、三河地震、福井地震など結構もう日本全国巨大地震が発生しています。
これを思うに、東京や大阪の大都市圏、愛知、宮城、奈良、鳥取、高知、福井、新潟などの防災はこれで良いのかと想うのは私だけではないだろう。建築基準法や都市整備を防災の立場や過去の教訓を活かすようにデザインしプランしてきた様には思えない。
人類は、歴史に学ばない典型的な例である。
さて、大阪地震の痕跡を発見した当時の資料である。
早飛脚によって各地に起った地震の被害状況を集めた・・・とあります。
当時もやはり情報を収集する事が一番の課題であり、第一歩の対策という事ですね。
それが現代においては、無能な総理と大臣の判断とパニックというお世話な虚偽によって福島県民には知らされませんでした。
嘉永7年(1855)、6月15日とあります。奈良は郡山とあります。
奈良の大地震を告げる瓦版。出火もしたようですね。諸国の状況概要ですかな。
◆何と、越前から薩摩までの地震による諸国の様子が書かれており、伊豆下田港に停泊中の艦船が大津波の影響を受けています。二度目の来日であった、ロシア使節のプチャーチンの乗艦していたデイアナ号が大津波で大破沈没したとあります。
そんな話聞いた事もない。
日本史は好きだったので、幕末時代は他人様より知っているつもりだったのだが、ショックである。
画像は拡大出来ます。
嘉永7年、(1855)11月4日。これは、第一報であり初編とあります。
この時点ではまだ大した事は無かった模様ですね。
大津波とあります。
大阪大地震の次第。
大阪大地震並びに大津波とあり、続きで二編とあります。
尼ヶ崎・丹後・奈良の被害も大きく、伊勢では津波もあり、死者400人とあります。
某テレビ番組の検証などでは、大正区や港区には想定内までの小さい避難設備しかなく、つまりまともな高い避難設備が存在しないそうです。
更に、もし東日本大震災並の津波が来たら、上町大地を除く大阪市の全域から堺市や摂津市付近までほとんど壊滅状態である事です。実は自治労などの詳細な資料もありますが、大阪市は消滅します。被災者の数は、福島どころの話ではありません。地下鉄に地下街、一戸建ての建物、逃げ道は周りの高層建築物が頼りですが、想像しただけで身震いしてしまいます。
それでは、親愛なる我がブログのファンの皆様、又、次回の記事までグッドラック!!
最後まで読んでくれて有難うございます。
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下記に詳しく説明していますが、津波も発生しています。
今回、この記事を書くきっかけとなったのは、実家に帰省した際、出雲五鉄師の一族糸原家の記念館に見学に行った折に、江戸時代の或る資料を偶然発見したからだ。
以下、その画像をご覧頂きたい。
知らない方のために、解説しますと、出雲五鉄師の中の御三家の一族、糸原家邸宅は、1958年公開、小林旭と浅丘ルリ子主演、「絶唱」のロケ地となった旧家である。舟木一夫と和泉雅子も、三浦友和と山口百恵版も存在します。主題歌がヒットしたのは舟木一夫と和泉雅子版です。
更に、出雲五鉄師の一族、島根の旦さんこと「田部長右衛門」「は過去NHKの特集番組「新日本紀行」で扱われ、NHKアーカイブスのリクエストで再放送された事があります。
更に、出雲五鉄師の一族、櫻井家邸宅は、あの「砂の器」、2004年渡辺謙・中居正広主演のTBS制作版のロケ地となりました。
さて、話を大阪地震と津波に戻そう。
因みに、1854年3月31日(嘉永7年3月3日)には、「日米和親条約」が締結されています。
1858年(安政5年)から1859年(安政6年)にかけては、あの「安政の大獄」弾圧事件が起きました。或る意味、この時代は、日本に取って最大のピンチだった訳ですね。
意外と、大阪の市民は安心しているのではないでしょうか!?
大阪には地震は来ないだろうと。
私の知っている僧侶は、理不尽な発生の仕方をする最近の日本の大地震を予言していましたが、その影響もあり、私は個人的に日本の大きな地震を調べてみたりもしました。しかし、今一つ、東日本大震災が起っても我々関西人はピンと来ていませんよね。
実は、大阪市民の大半はほとんど知らないけれど、約150年前の「安政南海大地震」の教訓をいかしたモニュメントと施設が2つ存在します。
1、大正橋東詰の地(大阪ドーム右正面・浪速区幸町3丁目9番)に、1855年(安政2年)7月に建立された「大地震両川口津浪記碑」です。現在、この地にあるのはレプリカです。
この石碑には、1707年(宝永四年)十月四日の「宝永地震」でも津波が襲ったと指摘してあり、且つ人々の記憶からこの教訓が忘れられているという嘆きまで述べられています。
2、又、大阪市西区江之子島2-1-64には、遂最近の昨年の平成21年9月8日にオープンした「津波・高潮ステーション」という対地震・津波災害に対する意識を府民に持たせるための広報施設が存在します。中には、「津波災害体感シアター」という優れものが存在します。小学生の遠足は絶対にここに行くべきではないでしょうか?
さて、ちょっとポイントを整理しておきましょう。
嘉永から安政に変号し、嘉永7年=安政元年であり西暦1854年(虎年)です。
日付は、暦が違うので、当然同じではありません。
更に驚いたのは、安政7年(1860年)の桜田門外の変は、この地震の影響で起きたと云っても過言ではない。
◆安政東海地震
1854年12月23日(安政元年11月4日)、御前8時、M8.4
死傷者数 数千人規模、津波 最大22.7m
・・・その約32時間後に・・・
◆安政南海地震
1854年12月24日(安政元年11月5日)、午後4時、M8.4
死傷者数 2〜3千人、津波 最大16.1m
◆豊予海峡地震
1854年12月26日(安政元年11月7日)、御前8時頃 、M7.4
被害データは、安政南海地震と混同されている。
◆安政江戸地震
1855年11月11日(安政2年10月2日)、午後10時、M6.9
死傷者数 4000人規模
◆昭和東南海地震
1944年12月 7日(昭和19年12月7日)、M7.9
死傷者数 1223人、津波 最大10m
◆昭和南海地震
1946年12月21日 (M8.0)
◆和歌山県南西部地震
1948年 4月18日 (M7.0)
また、ここには書ききれないほど、昭和東南海地震の後には、三河地震、福井地震など結構もう日本全国巨大地震が発生しています。
これを思うに、東京や大阪の大都市圏、愛知、宮城、奈良、鳥取、高知、福井、新潟などの防災はこれで良いのかと想うのは私だけではないだろう。建築基準法や都市整備を防災の立場や過去の教訓を活かすようにデザインしプランしてきた様には思えない。
人類は、歴史に学ばない典型的な例である。
さて、大阪地震の痕跡を発見した当時の資料である。
早飛脚によって各地に起った地震の被害状況を集めた・・・とあります。
当時もやはり情報を収集する事が一番の課題であり、第一歩の対策という事ですね。
それが現代においては、無能な総理と大臣の判断とパニックというお世話な虚偽によって福島県民には知らされませんでした。
嘉永7年(1855)、6月15日とあります。奈良は郡山とあります。
奈良の大地震を告げる瓦版。出火もしたようですね。諸国の状況概要ですかな。
◆何と、越前から薩摩までの地震による諸国の様子が書かれており、伊豆下田港に停泊中の艦船が大津波の影響を受けています。二度目の来日であった、ロシア使節のプチャーチンの乗艦していたデイアナ号が大津波で大破沈没したとあります。
そんな話聞いた事もない。
日本史は好きだったので、幕末時代は他人様より知っているつもりだったのだが、ショックである。
画像は拡大出来ます。
嘉永7年、(1855)11月4日。これは、第一報であり初編とあります。
この時点ではまだ大した事は無かった模様ですね。
大津波とあります。
大阪大地震の次第。
大阪大地震並びに大津波とあり、続きで二編とあります。
尼ヶ崎・丹後・奈良の被害も大きく、伊勢では津波もあり、死者400人とあります。
某テレビ番組の検証などでは、大正区や港区には想定内までの小さい避難設備しかなく、つまりまともな高い避難設備が存在しないそうです。
更に、もし東日本大震災並の津波が来たら、上町大地を除く大阪市の全域から堺市や摂津市付近までほとんど壊滅状態である事です。実は自治労などの詳細な資料もありますが、大阪市は消滅します。被災者の数は、福島どころの話ではありません。地下鉄に地下街、一戸建ての建物、逃げ道は周りの高層建築物が頼りですが、想像しただけで身震いしてしまいます。
それでは、親愛なる我がブログのファンの皆様、又、次回の記事までグッドラック!!
最後まで読んでくれて有難うございます。
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コメント一覧 (4)
-
- 2012年01月08日 12:00
- なぜか「津波・高潮ステーション」に行ったことがある私です。^^
2012年!とうとうやってきましたね。
>本年は世界的にえらい年になる
この言葉、肝に銘じておきます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。
-
- 2012年01月06日 20:20
- 津波は恐いですよね。
耐震構造なんて関係なしですからね。
*。
-
- 2012年01月05日 17:41
- 明けましておめでとうございます。
大阪はたしかに阪神大震災の記憶が薄れてきて、ちょっと安心していますね。
うちは一応、上町台地にあるマンションの4階なんですが、それでも怖くなります。阪神大震災・東日本大震災共に政権が混沌としている時に起きています。これも関係あったら、ちょっと嫌ですね。
二つともまったく予知できなかった最高学府の人たちに聞かせてあげたいような話です。
先日は拙ブログを訪問いただきありがとうございました。
島根に安政元年の東南海地震の瓦版が現存しているとは知りませんでした。勉強になります。
ただ津波については、第1波のエネルギーは狭い鳴門海峡を通り抜けた波だけが、広い大阪湾で拡散されていくので、湾内の津波の被害はそれほど大きくないと考えていました。
紹介いただいた大津波の瓦版を是非読んでみたいです。